ヘイトを除いたSNSは、なぜすぐ飽きられるのか

ヘイトを除いたSNSは、なぜすぐ飽きられるのか

「誹謗中傷を根絶したSNS」

「同じ価値観の人だけが集まる、安全なコミュニティ」

——リリース直後は話題になる。メディアも取り上げる。でも数ヶ月もすると、更新頻度が落ち、新規流入が鈍る。ようは飽きられるわけだ。

あなたはどうだろう。そういう場所、一度は覗いてみた派? それとも「最初から行かない」派?

私は前者に近い。興味はある。でも長くは残らない。なぜだろうか——人間の意識をひとつに統一するなんて、もともと無理だったんじゃないか、と最近はそう考えている。

ヘイトがない世界を実現したらどうなるか

SNSでヘイトや誹謗中傷を規制したタイプが、ときどき生まれる。

思想が近い人が集まり、荒らしや攻撃的な投稿を弾く。設計としては「健全なコミュニティ」に見える。リリース時には話題になる。けれど運用が進むと、集客が伸びにくい感じがする。

なぜ飽きるのだろうか。

まず前提として、争いがゼロになること自体は、多くの人が口では望んでいる。誰も傷つけられたくない。スクリーンを開いて胃がキリキリするのは、たまらなく面倒だ。

ただ、争いが消えると同時に、別のものも消える。タイムラインが穏やかになる。穏やかすぎて、スクロールする理由が薄れる。

同じ思想が集まると、争いは減るが刺激も減る

同じ思想が集まることは、争いを生みにくくする。理想論としてはそれでいい。

でも刺激がない。

賛成ばかりの会話は、安心はするが記憶に残りにくい。逆説的だが、人は「何かが起きた」と感じないと、そこに戻る動機が弱い。炎上、論争、誤解、すれ違い——醜い部分を除いたSNSは、同時に「何が起きているのか」も薄くなる。

これはアテンションエコノミーの話でもある。注目を集めるには、感情の振幅が要る。規制で振幅を抑えれば、安全にはなる。けれど振幅が小さすぎると、そもそも目に留まらない。

個人的には、これは設計者の失敗というより、人間の消費行動の癖に近いと思っている。善いコミュニティを作ろうとすればするほど、エンタメ性は落ちやすい——そのトレードオフを見誤っているサービスが多いのではないだろうか。

人は「普通」の中の逸脱を見たがっている

なんだかんだで、人は普通を嫌う、という感覚がある。

ここでいう普通とは、万人に受ける無難さのことだ。誰も傷つけない言い回し、誰も驚かない意見、誰も議論しない結論。穏やかで均質なタイムラインは、まさにその普通に近い。

SNSが面白いと感じられるのは、普通の中に逸脱が紛れているからではないだろうか。

極端な意見、予想外の反応、ちょっとしたズレ、見知らぬ誰かの生活の断片——平均から外れたものが、タイムラインの中で目立つ。だからスクロールが止まる。だから「あの人何考えてるんだ」と口に出す。

ヘイトや誹謗中傷は、その逸脱の最悪形だ。だから規制したくなる。でも規制を徹底すると、逸脱そのものも一緒に削ぎ落とされやすい。安全と刺激のあいだに、きれいな線は引けない。

意識をひとつに統一するなんて無理だった

ここまで来ると、論点はSNSの設計から、もう少し根の深いところに移る。

人間の意識をひとつに統一するなんて、もともと無理だったんじゃないか。

価値観、政治立場、ユーモアのセンス、怒りの閾値——人によってバラバラだ。同じ言葉を見ても、刺さる人と刺さらない人がいる。それを一つの空間でなだらかに溶かそうとすると、結果的に誰にとってもどうでもいい内容に寄っていく。

「みんな仲良く」は美しいスローガンだ。でも実際の人間関係は、同意と反対、共感と嫌悪、無関心と過剰反応が混ざったものだ。SNSはその縮図をリアルタイムで晒している。だから荒れる。だから面白い。だから、きれいに整えすぎると退屈になる。

つまり、ヘイトを除いたSNSが消えていくのは、運営が下手だからだけではない。人間がそういう場所に長く留まる理由が、構造的に弱い——そういう見方もできる。

まとめ:統一より逸脱

ヘイトのないSNSは、道徳的には正しい方向に見える。でも人は、安全な同質空間より、多少荒れていても「何かがある」空間に引かれやすい。

私はこれを擁護したいわけではない。誹謗中傷を許容しろ、という話ではない。ただ、意識の統一を前提にした設計は、最初から破綻しやすい——その構造を理解しないまま「優しいSNS」を作っても、また同じところで止まるのではないだろうか。

あなたが求めているのは、安全な場所か。それとも、違和感のある場所か。答えは人それぞれだ。けれど多くの人は、口では前者と言いながら、指は後者のほうをスクロールしている——そんな気がしてならない。