「差別と区別、何が違うんだろう」
そんな問いを何度も往復させられる本だった。
興味深い内容、でもなかった。ここにあるのは「差別をされた人の言葉」であり、その感想だ。
差別をしたとか、ヘイトスピーチをしたとか、誹謗中傷をした側の視点はほぼない。あったとしても判決事例とか開示請求の後の話で、それも誰でも思いつくようなつたない感想だけだ。
あなたはこの構成、物足りないと感じる派だろうか。それとも、それでいいと納得する派だろうか。
私はともすれば、その答えを欲しがっていたとは思わない。むしろそれが期待通りだったのではないだろうか、とさえ思っている。
差別と区別、何が違うのか
差別と区別は意味が違う。性質的には似ている。
ようするに、自分と違うものを認めないのが差別と区別だ。平等とは、差別や区別の概念が存在しない世界のことだろう。
それが実現しているなら、人も動物も自然も戦いをしないはずだ。戦いがなければ、誰かより秀でる必要がなければ、地球の生命体はここまで進化していないかもしれない。
だから「他者よりも」と考えるのは、本能で起きる行動じゃないかと私は考えている。
差別とかヘイトに傾倒する人は、その人の世界では間違っていない。
私からすれば、数多ある選択肢からそれを選んでしまっただけの話。同じコミュニティなら話は通じるだろうから、だから探すのではないだろうか。
なぜSNSで差別的な投稿はバズるのか
SNSでそういった投稿がバズりやすいのは、いわゆるSNS警察と呼ばれる一定層へのリーチがあるからだ。
アテンションエコノミーといえば聞こえはいいけど、ありていにいえば、他人を騙すとか誘導するのが目的だ。
クルド人差別のことがあったけど、人種が違うのは区別のはずだ。人類皆兄弟というなら、人種という概念は存在しないはずだから。
白人、黒人、黄色——今だにカテゴライズされている。男性と女性で「性別」があるのも区別だ。
区別と差別は何が違うのか。差別は攻撃的な言葉として受け止められるだろうし、そう感じている人もいるだろうけど、区別と何が違うのだろうか。
人それぞれに答えがあるということ
そういった考えを巡らせてくれた本だが、平易な意思の私だから咀嚼できる。
でも、両極端な人が読んだら、面白いほど意見が割れるんじゃないかなと思う。キレて本を破り捨てる人もいるだろうし、絶賛してシェアしつつ知見を振りまく人もいるだろう。
人それぞれ考え方は違うし、物事の捉え方も違う。そう思わないと、この世はやっていられない。私は私、お前はお前——このくらいがちょうどいい。
「お前がそう思うならそうなんだろ。お前の中ではな」のミームが浮かぶ。
あれはあれで、人それぞれに答えがあることを、1枚の画像で説明してくれている。あれを見てキレる人は、潜在的に自分がそうであると認識しているのかもしれない。危うさを感じているのか、それとも本能で避けたいのか。
「悪いものを排除すれば綺麗な世界になるのか」
特に人種差別とか犯罪者などの話は、裏側がどろどろしている。集団の中で1人が悪いことをすれば、他のすべても悪いことをしているように見えてしまう。
古い話だが、金八先生の「腐ったみかんの話」でいえば、箱の中で1個腐ったみかんがあると、他の綺麗なみかんも早く腐ってしまうという例え話だ。
同じ袋に入っているミニトマトの1個が腐っていたのは、直近で経験したことだった。1個だけ熟しすぎている果実とか、ぎゅうぎゅうに詰まっている長野のりんごとか、悪い部分はすぐ広がるんだけど、まあそこを取り除けば食えるじゃん、てね。
じゃあその話をくむと、悪いものを排除すれば綺麗な世界が生まれるのか。
——それは違うだろう。正義だらけになると他を排除してしまうから、対立が生まれる。対立が出てくると、争うことになる。これは人類史がはじまって以来、現在でもある戦争がなくならなかった理由でもある。本質的には違うだろうけど、戦う(喧嘩する)のは何のためにするのかを、足を止めて考えるべきだろう。
まとめ:差別と区別は紙一重
差別と区別を分けているのは、結局のところ「攻撃性があるかどうか」という受け取り手の感覚でしかないのではないか、というのが読み終えての実感だ。
腐ったみかんを取り除けば箱がきれいになるわけではなく、排除は別の対立を生むだけ——それがこの本を読んで一番残った具体だった。
人それぞれ答えが違うことを前提にしないと、この手の話はいつまでも平行線をたどるんだろうなと思っている。